キリスト教 教育

   
 
 
 
「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
(コリントの信徒への手紙- 13章13節)
 
 
 
 
キリスト教に基づく人格教育
 千葉英和高等学校の教育の土台は聖書です。一人ひとりにかけがえのない存在としての価値が与えられていることを知り、神に愛されている者として他者との違いを喜んで受け入れ、それを尊重し、真に平和な世界の形成者となることを目指しています。
 
 教育理念(建学の精神・校訓等)についてはこちら 
 
礼拝
 毎週月曜日に学校礼拝の時間があります。
 チャペルにて讃美歌を歌い、聖書の朗読や説教に耳を傾け(傾聴)、自らを省みて(内省)新たな一週間をスタートする時です。
 礼拝は講師の方をお招きしての特別礼拝や、宗教系クラブ(聖歌合唱部・ハンドベル部・オルガン奏楽部・聖書研究部コイノニア)を中心に行われる賛美礼拝、キリスト降誕劇を中心としたクリスマス礼拝「英和のクリスマス」などもあります。
 
聖書の学び
 聖書は、世界のベストセラーで今なお多くの人に読まれ、影響を与え続けています。
 1年次と2年次に週2時間、聖書の授業があります。本校ならではの教科です。
 1年次には、「人間(自分)とは何ものなのか」を一緒に考えます。2年次には、「生きる」ということを探求しつつ、自分の進むべき道で何を最も大切にしなければならないかを求めながら聖書の思想に迫ります。
 一方的な講義形式ではなく、自ら考え、対話をし、研究発表を通して互いに学び合うときです。
 

今週の説教

今週の説教
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賛美礼拝「証し」①
2021-07-19

 皆さんこんにちは。今回このような機会をいただけたこととても嬉しくまた光栄に思います。それでは話に入って行きましょう。早速ですが皆さんは、自分は視野が広いなと思いますか。視野を辞書で調べてみると眼を動かさないで見ることのできる範囲また視力の及ぶ範囲とでてきました。これは実際に私達についている眼球で見る今目の前のことの話ですよね。

 しかし私が言っている視野はこれではありません。「物事を考えたり判断したりする範囲」「知識、思慮、観察の及ぶ範囲」という意味の方です。私は最近自分の進路を考えるときに自分の視野の狭さを痛感させられました。

 この間海外の友達と4年ぶりぐらいに電話で話す機会がありました。もちろん日本語ですが。近況を話す中でやはり高3ということもあって進路の話になりました。私が色々自分の進路について話すと、ある言葉を何回も言われました。「そんなのおもしろくないよ」と。私はそれを言われたその日のことをよく覚えています。すごく衝撃的でそんなこと言われたことがなかったからです。逆にある人いますか。なにか決めなくてはいけないとき、大きな判断をしなくてはいけないときに、ましてや大学を決めるときに。少なくとも私はありませんでした。

 私はいい大学に入って企業に入ってサラリーマンもしくはOLと言われる会社員になるのが普通だと思っていました。それは親戚も含めた家族の男の人全員がそうだからです。企業に勤めるには、将来のためには、いい大学に入らなければという考えがいつの間にか自分の中でできていたのです。このようにそれしか知らないという無知が私達の視野を狭め、自分に近いものほど、その窮屈な箱に閉じ込めている可能性は十分にあると言えるでしょう。それは家族や友達、そしてSNS、そんな当たり前のものかもしれません。

 では、視野を広げるにはどうしたらいいでしょうか。まずは知識を増やすことだと思います。本を読んでみたり実際に肌で感じてみたり。私は新たな人や場所に行ってみることが一番効果的だと考えています。自分とは違う人と話すことはとても刺激的なことです。そして自分と違うことを受け入れること。これができれば最強だと思いませんか。話をするだけでも大きなものを得られると思います。これは自分からやらなければ何も進みません。

 フランシス・ベーコンはこう言いました。「なんと言っても最上の証明は経験だ」と。生きる道は1つではありません。そして今見ている世界が全てではない。むしろ今見ている世界は何万分の1かもしれない、それ以下かもしれない。自分が見ているだけで世界を決めつけてはいけません。ぜひ怖くても新しいところに行ってみて、肌で色々なものを感じてみてください。一度感じたものはなかなか忘れられないものです。感じたもの、経験したのが自分の証明になり、視野が広がるきっかけとなってくれます。それは1年後の話かもしれません。

 

 次はキャパシティと逃げることです。キャパシティとは自分の容量、対応能力です。皆さんはバケツの話は知っているでしょうか。1つのバケツを自分の容量だと考える。そして生活しているとバケツの中には水がどんどん溜まっていきます。もういっぱいになりそうです。もうすぐ穴が空いてしまうかも。さあ皆さんはこの水がバケツからもれないようにするにはどうしますか。1つ目はそのバケツを大きくする。2つ目は中身を捨てるかと思います。ある人は水の受け皿を作ると言いました。この受け皿は第三者でしょう。自分の容量を増やしたり対応能力を高くしたりするのって難しいですよね。バケツの水が溢れ出たとき、それはキャパオーバーです。本当はそうなる前に中身を捨てたり減らしたりするべきです。でもこうなってしまったときは容量を今すぐ増やすよりもその場から逃げることの方が早いです。逃げるというのは場所だけでなく人間関係にも当てはまりますね。これはとっても大切だと思います。「逃げる」というワードはマイナスな感じがどうしてもしてしまいます。でも自分が潰れてしまう場所には絶対にいるべきではないことは確実ですよね。

 ここで私の好きな漫画に視点を向けてみましょう。皆さんは『ここは今から倫理です(天瀬シオリ)』という漫画をご存知でしょうか。すごく簡単にいうと高柳という倫理の先生と生徒たちに起きる問題を倫理的に解決していくという漫画です。そこで1つ話を紹介します。

 ある男子生徒の話です。彼はまずこう言いました。「勉強しなきゃ」「受験まで時間がない、勉強しなきゃ」「お母さんが期待しているんだから」と。彼の家は父親が高卒の自動車工場で働いていて決してお金があるとは言えない。だから母親は昼間働いている。彼はいつも自分のことを頭が悪いって言うんですね。決してそんなことはないのに。またこうも言いました。母親は根気よくいろんなものを与えてくれる、そして僕は頭が悪いってわかっていても見捨てたりはしなかったと。

 毎日彼は放課後遊ばすにまっすぐに図書館に行って勉強しています。そんな彼に母親はお父さんのように安い給料で働いてほしくないと彼にたくさんのことをしてくれます。それを彼はありがたいと思っていて母親の期待に答えるためにずっと勉強していた。

 しかしなんで自分が勉強しているのかわからなくなってしまったのです。母親のため? 自分のため? なぜ母親のため? 大学選びだって母親がオープンキャンパスに行って資料をもらってきて提案する。それに少しでも賛成するとすごく母は喜ぶんですね。それで母親思いの彼は余計に自分の意見を持たなくなる。なぜなら母親が喜ぶから。彼も彼でどうかとは思いますが、彼に選択肢があるようでない。そんな状況でした。

 そんな彼に高柳先生は言いました。「勉強は本当は楽しいものなのですよ。ホッファーは言いました。他者への没頭はそれが支援であれ、妨害であれ、愛情であれ、憎悪であれ、つまるところ自分からの逃げるための手段であると。どうか自分を一番に愛して自分のために生きてください」と。そして彼は「お母さんのこの性格はきっと変えられない。大学受験が終わったらなんの勉強しようかな、それだけは少し楽しみになった」という結論を出しました。

 ホッファーのこの言葉は自分が自分から逃げることについて言っています。それが愛情であろうと何であろうとそれは自分から逃げる手段であると。私たちは自分から逃げてしまうことばかりです。しかし嫌と思えること、自分から逃げているってわかったとき、それに気づけたとき、変わるチャンスです。気づけたとき自分の中にちっちゃな変化がすでに起きているかもしれません。

 私には1つ好きな言葉があります。「逃げ出したなんて言葉に縛られずそのまま受け止めればいいの、逃げたんじゃなくて辞めた。ただそれだけのことよ」という言葉です。これは『すーちゃん』という漫画のセリフです。すごく素敵ですよね。こうやって逃げることを少し前向きに考えてみるのもいいと思います。

 しかしただ逃げるのは危険です。正しい逃げ方でなければなりません。正しい逃げ方は受け皿があるところに逃げることです。あなたが逃げた方がいい状況になったとき誰かがいてくれていますか? 誰かの存在が必要です。私にはそのような存在がいてくれています。もし誰もいないならあなたがなってあげればいい。逃げることにだって勇気がいるんです。だからあなたが支えてあげてください。そして神様にも助けを求めてください。それも皆さんにできます。

 

 最後に聖書箇所を読んで終わります。

 

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(第一コリント10:13節)

 

 困ったときは誰かに、誰もいないなら神様に助けを求め、いつか皆さんが誰かの逃げ道になってくれたらと思います。

 

3年 A・H

 
学校礼拝説教「こどくとことば」
2021-06-28
主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。
創世記2章18節
 
 先日、聖書の授業でこんな問いを投げかけました。「あなたの人生において、誰とも代わってもらえないことは何か」。この問いはハイデッガーの思想に触れるためのもので、彼に言わせればそれは死であり、そこへ至る固有の人生となります。しかし高校生のみなさんは、今のその人により近い答えを出してくれました。それは例えば感情や心、痛みといったものです。これらも誰とも代わってもらえないことです。本日の説教題にある孤独とは、そういった意味での孤独です。人類は今70億人ほどいますが、私の心や感情、痛みと向き合いながら生きるこの人生は私のものでしかない。存在ということを考えるならば、私たちは誰でも孤独であります。これは見方を変えればかけがえのないものとも言えましょう。ただそれで人間が完成したかというとそうではありません。本日の聖書箇所で神様はこう言います。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を作ろう」。人には互いに助け合い支え合う存在が必要です。それでやっと世界は完成します。
 さて言葉とは何か考えたことはありますか。あなたは自分が初めて発した言葉を知っていますか。私の場合はお母さんを意味する言葉だったそうです。初めて言葉を発して、それが伝わった時の気持ちは覚えていませんが、その言葉を聞いた母がとても喜んだというのは想像できます。これは私だけの経験ではないでしょう。ヘレンケラーが言葉を見つけた時の話を覚えている人もいると思います。これらの例から何が考えられるのか。言葉を使えば何かが伝わる、繋がるということです。言葉というのは元々繋ぐためにあるのではないでしょうか。私の孤独と誰かの孤独、あなたの孤独とこの世界を。
 しかしどうすればそんな言葉を使うことができるのでしょうか。何を学べば分断ではなく繋ぐことができるのか。そのヒントは愛です。愛が言葉を機能させる。人と人の繋がりの中で我々が学ぶべきは、愛を用いることです。
 
聖書科 S・O
 

入試での優遇制度について

入試での優遇制度について
 
牧師・教会推薦(高校入試)
 本校のキリスト教主義に基づく教育方針を深く理解し、それに貢献できるキリスト教信者、または求道者(洗礼を受けて
いないが定期的に教会に通っている者)の受験生は、特別の基準がありますので、募集要項の4ページをご覧のうえ、本校の宗務長(チャプレン)に直接連絡してください。
 
 
指定校推薦・キリスト教学校教育同盟校推薦(大学入試)
 年度によって多少変わりますが、昨年度の指定校の一部がスクールガイドに載っています。
 校内で選抜し、学校長が推薦します。キリスト教学校教育同盟校推薦はクリスチャンもしくは求道者であることが条件ですが、中には条件を課さない大学もあります。
 指定校推薦を利用できるのは総進文理コース・特進文理コース・英語科の生徒のみです。
 
<<学校法人 聖書学園 千葉英和高等学校>> 〒276-0028 千葉県八千代市村上709-1 TEL:047-484-5141 FAX:047-487-5466