キリスト教 教育

   
 
 
 
「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
(コリントの信徒への手紙- 13章13節)
 
 
 
 
キリスト教に基づく人格教育
 千葉英和高等学校の教育の土台は聖書です。一人ひとりにかけがえのない存在としての価値が与えられていることを知り、神に愛されている者として他者との違いを喜んで受け入れ、それを尊重し、真に平和な世界の形成者となることを目指しています。
 
 教育理念(建学の精神・校訓等)についてはこちら 
 
礼拝
 毎週月曜日に学校礼拝の時間があります。
 チャペルにて讃美歌を歌い、聖書の朗読や説教に耳を傾け(傾聴)、自らを省みて(内省)新たな一週間をスタートする時です。
 礼拝は講師の方をお招きしての特別礼拝や、宗教系クラブ(聖歌合唱部・ハンドベル部・オルガン奏楽部・聖書研究部コイノニア)を中心に行われる賛美礼拝、キリスト降誕劇を中心としたクリスマス礼拝「英和のクリスマス」などもあります。
 
聖書の学び
 聖書は、世界のベストセラーで今なお多くの人に読まれ、影響を与え続けています。
 1年次と2年次に週2時間、聖書の授業があります。本校ならではの教科です。
 1年次には、「人間(自分)とは何ものなのか」を一緒に考えます。2年次には、「生きる」ということを探求しつつ、自分の進むべき道で何を最も大切にしなければならないかを求めながら聖書の思想に迫ります。
 一方的な講義形式ではなく、自ら考え、対話をし、研究発表を通して互いに学び合うときです。
 

今週の説教

今週の説教
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学校礼拝説教「おそれることはない」
2021-10-25

「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。」

創世記21章14-21節

 

「いちばん大切なこと」とはなんだろう

 「いちばん大切なことは目に見えない」という言葉をご存知ですか。「本当に大切なこと」や「かんじんなことは」という訳で知っている人もいるかもしれませんが、『星の王子さま』の中に登場する有名な台詞です。本日の説教題は「おそれることはない」ですが、「いちばん大切なこととはなんだろう」というのが今回、聖書に問う問いであり、みなさんと共に考えたいことです。いちばん大切なこと、みなさんは何だと思いますか。一番というくらいだから、この世にたくさんある大切なことを越えて、何より一番、いつまでも大切さが残るようなこととは。

 私がそのようなことを考え始めたのは、ちょうどみなさんと同じ頃、高校二年生の時でした。高校生の私にとって、世間は流行りや新しいものに溢れているように見えていました。それでいて、大人たちは何か色々なことを求めてきますし、周りの友人たちもどんどん前へ進んでいってしまうような気もしていました。たくさんの考えなければならないことがあると分かっていたとしても、あらゆることが急ぎ足で飛び込んで来ては去っていくような感覚を持って生きていたように思います。あらゆることが速過ぎる。そんな時、ある友人が誘ってくれました。「演劇部が放課後に『星の王子さま』をやるから、観に行こうよ」と。私は最初、乗り気ではありませんでした。「星の王子さまって、あの不思議な格好をした少年が表紙の本だろ」。しかし、観てみると、今でも人が真剣に何かに向き合っている姿に胸を打たれることが多くありますが、演劇部の人々の真剣な姿と一つの言葉に感動を覚えました。「いちばん大切なことは目に見えない」。

 そこから、私のいちばん大切なこと探しが始まりました。自分の中にあるだろうか。自然の中にあるものだろうか。音楽の中、友達や恋人との関係の中だろうか。あなたにとっての大切なことはどこにありますか。時に、目に見えないというのは本当かなと疑うこともあります。目の前にいる人の笑顔もかけがえのないものというのは嘘ではありませんから。そしていつしか癖として考えるようになりました。何かをしている途中でも、「いちばん大切なことはなんだ、見失ってやいないか」と。

 

ハガルとイシュマエル

 さて、本日の聖書の話に目をやりましょう。どうしても礼拝では短い時間しか取れないのですが、本当は今日の話を理解するためには創世記16章から読むのがよいと思います。登場人物の背景も知ることができますから。しかし、知らないままでは分からないでしょうから、少しだけ紹介しておきましょう。今日の話はお母さんと子供の放浪の話です。なぜ、この母子が放浪することになったかというと、複雑な家庭の事情があります。ハガルという人(お母さん)は元々アブラムという人の妻サライの召使いでした。アブラムとサライは結婚しておりましたが、なかなか子供に恵まれなかった。そこで、サライがアブラムに提案します。あなたは私の召使いのハガルと夜を共にしてください、そうすることによって私たちに子供が与えられるかもしれない。そんなメチャクチャなと思うかもしれませんが、アブラムはこの提案を受け入れ、イシュマエルを授かります。

 子供の誕生というのは本当に喜ばしいものです。しかし、ことはそううまく運びません。サライはハガルに辛く当たるようになります。さらにその後、サライとアブラムの間にイサクという子供が生まれます。結果、サライにとっては自分が産んだ子であるイサクこそが自分たちの後継であるとなり、ハガルとイシュマエルを好意的に見なくなりました。アブラムはそのことで悩みますが、結果としてハガルとイシュマエルを立ち去らせます。そこから、今日の話が始まります。

 女主人の元から去った母子。二人は荒れ野を彷徨うことになります。私たちの身近には荒れ野がありませんが、どういう所かというと、岩のように硬く固まった砂の大地のようなところです。所々たくましい植物を見ることもありますが、地面は砂色、頭上は強烈な太陽が降り注ぐ世界です。そのような厳しい環境の中をパンと水の革袋、それだけを持って旅をすることはできるでしょうか。みなさんならそのような荒れ野に放り出されたら、どうしますか。携帯の電波は最早頼りにならないかもしれません。この母子においても、自然の過酷さは変わりませんでした。背中に背負っていた水はすぐになくなってしまいます。そうして彼女は息子を灌木の木陰に寝かせて少し離れたところに行ってしまった。「子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って。このお母さんの行動、みなさんにはどう映りますか。自分勝手だなと思いますか。それとも、納得できるでしょうか。今や、自分にとって唯一の愛する対象が死に直面している。あなたがハガルの立場であったら、どうしますか。あるいはイシュマエルの視点ではどうでしょう。もう飲み水もない熱暑の中で、唯一の家族であるお母さんは少し離れたところで泣いている。あなたがイシュマエルなら、何を願いますか。

 

「おそれるな」とはなんのことでしょう

 さて、いちばん大切なこととはなんだろうというのが本日の問いでした。ハガルにとっては息子が死ぬ可能性を感じながら、少しでも生きてほしいと思っています。彼女は息子を木陰に寝かせましたから。イシュマエルはどうでしょう。死の恐怖に直面してか、母を呼んでいるのか、彼も泣いています。お母さんのとった行動は本当にこれで良かったのでしょうか。そんな折、神の御使がお母さんに語りかけます。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない」。神さまは何を伝えようとしているのだと思いますか。恐れることはないなんて。死を恐れるなということでしょうか。しかし、この物語は死で終わりはしません。考えなければならないのは、この物語でお母さんと息子が本当に望んでいたことはなんだろうということです。彼女たちにとっていちばん大切なことはなんでしょう。そして、この状況において彼女が恐れたこととは何か。

 御使の言葉はこう続きます。「神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい」。抱きしめたところで、運命は変わらないかもしれません。母の手の温もりが喉の渇きを癒すだろうか。しかし、そうではない。本当に癒さなければならないのは、もっと深刻な渇きです。人がずっと求め、悩み続ける渇きです。それは愛情に対する渇きです。子を愛するゆえに「子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って遠くで泣いていたお母さんに、神は御使を通してなんと言ったか。「あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい」。「恐れるな」とは愛に対する言葉です。愛することを恐れるな、いかなる時も。それがあなたにとっていちばん大切なことではないか。そうして、彼女の目は開かれます。見失いかけていたものを見つけるわけです。井戸のことでしょうか。いや、そうではない。大切な子供を愛し、生きるということを。

 

「いちばん大切なこと」とはなんだろう

 さて、親愛なる高校生諸君。あなたにとってのいちばん大切なこととは何でしょう。いかなる時もあなたが求め、あなたが成し得ることとはなんでしょう。今日の話の中で、聖書はこういいます。いかなる時も、自分の弱さに直面して声を挙げて泣かなければならないような時も、荒れ野のど真ん中で、彷徨い、自分がどこにいて、どこに行けば良いのかわからなくなってしまった時も、いかなる時もあなたにはいちばん大切なことが残されている。その可能性は自然の猛威も、死を目前にした状況にあってもあなたから奪い去ることはできない。それは愛することです。そして、愛されたいと渇く気持ちを見つけてあげることです。言葉に迷うならば手を差し伸べるだけでもいい。あなたの体温に意味があることが証明されましょう。いかなる場合でもあなたは愛を示すことができる。そしてそれは、あらゆる人の癒し難い渇きを癒すことにもなる。どこにいても、誰と向き合おうとも、恐れることはありません。愛を示すことを、恐れることはない。それをすぐに理解しない人もいるかもしれません。しかしながら、それはあなたや人を生かすことになるでしょう。ハガルのように自分の運命の中で、悲しくて涙を流すような時も、聖書はこう言います。どうしたんだい。恐れることはないよ。愛することをなさい。そうすれば、見失いかけているものも見えてくるでしょう。さて、いちばん大切なこととはなんでしょう。

聖書科 K・O

 
学校礼拝説教「希望を生むこと」
2021-10-18

苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出す。

ローマの信徒への手紙5章3-5a節

 

 本日の聖書箇所で「忍耐」と訳されている言葉は、元の言葉に忠実に訳すならば「その場にとどまる」となります。そして「練達」と訳されている言葉は「本物としての性質、品格」を意味します。ですから、本日の聖書箇所は「苦難は、その場に止まることを、その場に止まることは、本物のとしての性質、品格を、本物としての性質、品格は、希望を生み出す」という意味であると考える事が出来ます。

 ではパウロは、「苦難の中にとどまり続けて忍耐すれば、立派な品格を身につけることが出来て、その品格が希望を生み出す」、つまり「希望を持つには若い頃の苦労は買ってでもして、立派な人格を身につける必要があるよ」といった一般論を語っているのでしょうか。私は、パウロはそんなことを言っているのでないと思います。なぜならパウロが見出した「本当の自分の性質、品格」とは、世間的な価値観でいう立派であるとか、「偉い」という事とは異なっているからです。パウロという人は元々、すごく努力して立派な人になろうとした人です。当時神様の掟として定められていた律法を熱心に守り、清く正しく美しく生きる、そして立派な品格を身につけようと努力を重ねていた人でした。彼は「立派な品格」が希望を生み出すと信じていたのです。ところがそのような考え方だったパウロが見出した自分、それは「立派であろうとすればする程そうではない自分、人に優しくありたいと思っていてもそうあれない自分、自分と他人を比較して、自分はこんなに頑張っているのにあいつらは何も努力していない!許せない」という、自分も他人も許すことが出来ない自分だったのです。

 そんなパウロがあるとき、イエス・キリストに出会い、彼の声を聞いたのです。それはどのような声だったのでしょうか。それは「パウロ、お前はお前でいいのだ。あなたは、あなたであるから素晴らしいのだ。」という声。「すなわち、あなたは人と比べなくていいのだ。あなたはあなたの人生を生きればいいのだ」という声でした。ですから、本日の聖書の箇所は「苦難は、その場に止まることを、その場に止まることは、本物のとしての性質、品格、すなわち、あなたは神様にすでに愛されてしまっているということ、そして、そのことが希望を生み出す」と解釈することが出来ると思います。英和高校で学ぶ皆さん。あなた達の人生は神様に祝福されているものです。「俺なんか真剣にやっても、たかが知れている」なんてことは決してない。皆さんの人生は真剣に生きるに値するものです。皆さんの人生が、光り輝く物であることを共に信じて歩みましょう。

聖書科 T・N

 

入試での優遇制度について

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牧師・教会推薦(高校入試)
 本校のキリスト教主義に基づく教育方針を深く理解し、それに貢献できるキリスト教信者、または求道者(洗礼を受けて
いないが定期的に教会に通っている者)の受験生は、特別の基準がありますので、募集要項の4ページをご覧のうえ、本校の宗務長(チャプレン)に直接連絡してください。
 
 
指定校推薦・キリスト教学校教育同盟校推薦(大学入試)
 年度によって多少変わりますが、昨年度の指定校の一部がスクールガイドに載っています。
 校内で選抜し、学校長が推薦します。キリスト教学校教育同盟校推薦はクリスチャンもしくは求道者であることが条件ですが、中には条件を課さない大学もあります。
 指定校推薦を利用できるのは総進文理コース・特進文理コース・英語科の生徒のみです。
 
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