キリスト教 教育

   
 
 
 
「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
(コリントの信徒への手紙- 13章13節)
 
 
 
 
キリスト教に基づく人格教育
 千葉英和高等学校の教育の土台は聖書です。一人ひとりにかけがえのない存在としての価値が与えられていることを知り、神に愛されている者として他者との違いを喜んで受け入れ、それを尊重し、真に平和な世界の形成者となることを目指しています。
 
 教育理念(建学の精神・校訓等)についてはこちら 
 
礼拝
 毎週月曜日に学校礼拝の時間があります。
 チャペルにて讃美歌を歌い、聖書の朗読や説教に耳を傾け(傾聴)、自らを省みて(内省)新たな一週間をスタートする時です。
 礼拝は講師の方をお招きしての特別礼拝や、宗教系クラブ(聖歌合唱部・ハンドベル部・オルガン奏楽部・聖書研究部コイノニア)を中心に行われる賛美礼拝、キリスト降誕劇を中心としたクリスマス礼拝「英和のクリスマス」などもあります。
 
聖書の学び
 聖書は、世界のベストセラーで今なお多くの人に読まれ、影響を与え続けています。
 1年次と2年次に週2時間、聖書の授業があります。本校ならではの教科です。
 1年次には、「人間(自分)とは何ものなのか」を一緒に考えます。2年次には、「生きる」ということを探求しつつ、自分の進むべき道で何を最も大切にしなければならないかを求めながら聖書の思想に迫ります。
 一方的な講義形式ではなく、自ら考え、対話をし、研究発表を通して互いに学び合うときです。
 

今週の説教

今週の説教
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「もしもその火が灯るなら」
2020-11-16
2020年11月16日 学校礼拝説教
 
「もしもその火が灯るなら」
 
 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で主の栄光があなたの上に輝く。
イザヤ書60:1-2
 
 聖書の授業や礼拝において愛が鍵語となっていることは皆さんならもうご存知でしょう。しかしながら、この愛について多くの時間を費やすことができないまま今に至っております。そのため、本日は愛について考えていきます。愛とは何か、今の皆さんならこれをどう表現し、答えますか。
 さて、本日の聖書箇所ですが、愛という語は用いられておりません。しかしながら、当該箇所にはそれが光と闇という表象を通して暗示されていると言えます。光が愛を意味しているということです。
 では、闇とは何か。この聖書の言葉が語られた背景を踏まえると、これは例えば不安や混乱を意味すると言えるでしょう。この言葉が向けられた人々の中には、自分がどのような道を歩んで今に至るかを知っていたとしても、これから何処へ向かうのか分からないという人もいたと考えられます。更に、そこには悲しみや失望といった、より複雑な感情も入り混じっていた可能性も考えられます。
 他方、光については二種類言及されています。第一は神様です。これは、世界が暗闇に覆われていると思える時であってもあなたは一人ではない、神様があなたと共にいる、どんなに孤独に思える時であってもあなたは愛されるべき存在であるということです。
 第二は「起きよ、光を放て」と呼びかけるのは、この預言の聴衆に対してです。これは、人に不可能なことを告げているわけではありません。いかに暗い道を歩んでいる時であっても、人は光となりうる、あなたたち自身が世の暗闇を照らす光であるということです。
 生きていく上で、私に何ができるのかと戸惑うこともあるでしょう。自分がこれから何処へ向かうのか、不安の中を歩んでいる人もいるでしょう。対立の只中にいる人もいるかもしれません。そのような暗闇の中でも輝きうるものが愛です。誰かを愛すること、自分が愛されている存在であることを探すこと、このことは、いかなる場合においても我々に可能なことであり、その可能性が失われることはありません。
 
聖書科 S・O
 
 
「見よ、それは極めて良かった。」
2020-11-09
 2020年11月9日 学校礼拝説教
 
「見よ、それは極めて良かった。」
 
 神は、お造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。
創世記1章31節
 
 ハービー・山口という日本人の写真家がいます。彼はthe clashというバンドのジョー・ストラマーという人の写真を撮り、一躍有名になります。山口はある時、地下鉄の駅でジョーに偶然出会います。 
 千載一遇のチャンスと思った山口は、こう声をかけました。「写真を撮ってもよろしいですか。」この申し出を快諾してくれたジョーは、電車が止まりホームに降りる瞬間、山口に次の様な言葉をかけてくれたそうです。
「撮りたいものはすべて撮るんだ! それがパンクなんだ。」
 山口は、ジョーがなぜこのような言葉をかけてくれたかということを次の様に語ります。 「それは、自分の姿勢が良かったからだと思う。片言の英語で話しかけて、一生懸命写真を撮る姿を見てくれた。今はもう死んでしまって答えを聞くことは出来ないけれど、彼は、きっと『それは、お前が真剣だったからさ』と言ってくれるだろう。」
 人が真剣に物事に取り組む姿は人の心を動かします。その対象がスポーツであれ、勉強であれ、遊びであれ、人が真剣に取り組んでいるその姿は、上手、下手など関係なく心を動かします。しかし、中には意地悪な人がいて、「そんなこと一生懸命やって何になるの」などと言ったり、一生懸命やっている人を馬鹿にしたりする人がいます。そんな人の言葉は聞かなくて結構です。
 本日の聖書は、こう宣言します。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」この宣言は、どういう意味なのでしょうか。それは、「世界は、そしてこの世界で生きている私たちは、すばらしい。どんどん生きろ!」という意味だと私は思っています。
 どうせ俺の人生なんて、真剣に生きたところでたかが知れている。と思う必要なんか無いのです。あなたたちの生きている世界は、真剣に生きるに値する。そして、あなたたちの人生もまた、真剣に生きるに値するすばらしいものです。そしてあなた達には、その力が備わっている。そのことを忘れないでください。
聖書科 T・N
 
 
 
「『正しさ』を正しく用いる」ルカ16:10、6:37
2020-11-02
2020年11月2日 学校礼拝説教
 
「『正しさ』を正しく用いる」
 
ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。
ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
ルカによる福音書16章10節 
人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。
人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。
赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
ルカによる福音書6章37節
 
1. 小さな正しさを積み重ねる決断をする。
 ルカ16章はイエス・キリストの有名な言葉であるが、「小さな事に忠実」とは「神様の前で小さな正しさを続けること」ともいえる。神様に真っすぐの心を持ち続ける決断をし、神様の前に小さな正しさを積み重ね続ける一人一人であって欲しい。私たちが小さな正しさを日常で実行し続ける時に、人生を左右する大きな正しさの決断が出来てくるのである。人生の試験は、期日を定めてやってくるわけではないからだ。
 私が先日小テストで採点間違いしてしまった時に、たとえ点数が下がっても申告してきた生徒がいた。すばらしいことではないだろうか! 無視してもいいような小さな正しさだけれども、それを実行することにより「大きな事にも忠実」になれる。大きな正しさの選択のときに、正しさを実行できる。
 数年前ATMでお金をおろした時に、目の前で札束を忘れた人がいた。さてどうするか。知らせるか、横領するか!? 当然、私は忘れて行った紳士に知らせたわけだけれど、同じような状況で横領して逮捕された記事を何度か見たことがある。その記事を見た時に、突然やってくる究極の「正しさの選択」に対する態度はいつ養われるのだろう、と思ったのである。そう、それは日常の小さな正しさの選択によって養われるのである。
 私たちの人生の選択肢、あるいは人生のテストは時としてこのようにしてやってくる。英語の問題では、どちらの語が正しいか4択で選べばよい。それは私たちの知識で選ぶ。悪いことすると神様が見ているよ! という話をしているのではない。私たちの人生のテストは予告なくやってくる。そして、その時に皆さんの心が試されていくのである。そこまで積み上げた小さな正しさが試される瞬間が誰にでもやってくる。自分の人生が自分の手から離れていってしまうようなチョイスをしないために、人生のテストを私たちの心、そして心の中の知恵で選ぶのだ。
 
2. 正しさを他者の剣にしてはいけない。
 そして、「正しさ」ということについて私たちがもっとも知っておかなければいけないこと。それは他者を切り刻むために「正しさ」を用いてはいけない、ということである。
 人を裁くという行為を他者に対して行い続けるなら、段々と「自分は正しい」という傲慢さが心を支配してしまう。それは「許せない」という思いを自分の心に生み出す。そしてそれがもっと大きくなると、恨みや怒りという間違ったエネルギーになっていく。ネットの書き込みなどは匿名性があるため、人々の感情が出やすいものである。酷い事件があると、すぐに「加害者を死刑にしろ!」「生かしておくな」というような書き込みを平気でするのである。
 ルカ6章37節は私の座右の銘でもある。私たちは時々、いとも簡単に他者を裁き、人を罪に定めてしまう。どんなことがあっても「裁かない」。私はよくこのことを言うけれど、とても大切なことである。この原則をまずしっかりと自分のものにして欲しい。
 人を指さして責める時、3本は自分を向いているではないか。人を責める3倍自分の心をチェックするべきなのである! イエス・キリストは「正しさ」で人を罪に定めるくらいなら、「赦す」ことを選ぶ人になることを教えている。私たちが他者を赦すことを選ぶ時、自らが他者に実は赦されている存在であり、また神にも赦され、愛されていることが分かるものなのである。 
英語科 S・W
 
 
「嵐の中で輝いて」マルコ4:35-41
2020-10-26
2020年10月26日 学校礼拝説教
 
「嵐の中で輝いて」
 
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
マルコによる福音書4章39-40節
 
 人生において全く苦しみや悩みがないという人は、まずいないと思います。生きていく中で必ずと言っていいほど、悩みや苦しみを経験します。自分では解決するのが難しい悩みや苦しみというものもあるかもしれません。そんな時に私たちは、誰かに頼るということが必要になってきます。誰かを頼ることは決して恥ずかしいことではありません。むしろ頼れる存在があるということは、とても心強いことです。
 皆さんには、信頼できる人がいるでしょうか。頼れる存在があると、私たちはたとえ助けてもらわなかったとしても、心強いのです。悩みや苦しみがあったとしても、その不安の中にあったとしても、安心感を得ることができます。
 悩みや苦しみの只中にあるとき、どうしても不安になり、周りがよく見えなくなってしまいます。そして、時にあきらめてしまうこともあります。そんな状態では、解決できることも解決できなくなってしまいます。本当はあきらめる必要のないことも、簡単にあきらめてしまうかもしれません。
 けれども、誰か信頼できる人、信頼できる存在があれば、不安を抱いたとしても心強められ、希望を持つことができるのです。
 この学校生活は、自分にとって頼れる存在を見つけることができる場所の一つだと思います。それは友人であったり、家族であったり、先生であったりするかもしれません。もちろん信頼できる人、頼ることができる存在を今は見つけられないこともあるでしょう。しかし、それでもあきらめないで欲しいのです。これから、今まで以上に多くの人と出会うことでしょう。その中で、きっと信頼できる人、頼れる人と出会うことができると思うのです。それはずっと同じ人かもしれませんし、その時々で違う人かもしれません。
 自分でできない時は誰かを頼っていいのです。頼れる存在がいるということは良いことだと思うのです。苦しい時、「こんなことぐらいで」と頼るのをあきらめないで欲しいと思います。いつでも頼っていいのです。
 色んな人に頼りながら、本当に自分が頼れる存在を探せば良いのだと思います。それは決して依存や人の言いなりになるということではありません。むしろ自分自身で考えるということが必要になります。その力を育てる期間が今なのだと思います。これから苦しいこと、悩むことは多くあると思います。その中で光を見失わないこと、生き残ること。その力をこの学校の学びの中で身に着けていって欲しいと願います。
聖書科 S・A 
 

入試での優遇制度について

入試での優遇制度について
 
牧師・教会推薦(高校入試)
 本校のキリスト教主義に基づく教育方針を深く理解し、それに貢献できるキリスト教信者、または求道者(洗礼を受けて
いないが定期的に教会に通っている者)の受験生は、特別の基準がありますので、募集要項の4ページをご覧のうえ、本校の宗務長(チャプレン)に直接連絡してください。
 
 
指定校推薦・キリスト教学校教育同盟校推薦(大学入試)
 年度によって多少変わりますが、昨年度の指定校の一部がスクールガイドに載っています。
 校内で選抜し、学校長が推薦します。キリスト教学校教育同盟校推薦はクリスチャンもしくは求道者であることが条件ですが、中には条件を課さない大学もあります。
 指定校推薦を利用できるのは総進文理コース・特進文理コース・英語科の生徒のみです。
 
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